ケイシーは、催眠状態で自分を通して与えられる情報に大きな価値を見出すようになり、速記者を雇って正確な記録を残すことを思い立つ。何人かの速記者を試した後に、やっと完全にリーディングを速記できる人物が現れた。それが当時18歳であったグラディス・デイビス(288)である。グラディスは生涯にわたってケイシーの有能な秘書となり、1923年以降、ほとんどすべてのリーディングを速記した。彼女がいなければ、リーディングがここまで完全に文書化されることはなかったであろう。
1923年はリーディングを記録するようになったことに加えて、もう1つ大きな展開があった年である。それは、オハイオ州で印刷業を営むアーサー・ラマース(5717)との出会いによって、それまでもっぱら病気の診断に向けられていたリーディング能力が、あらゆる分野に適用できることが見出されたからである。ラマースの質問によって、人間は永遠不滅の霊的存在であり、魂の練磨のために何度も地上に生まれ変わることがリーディングによって示された。ケイシーは、自分の口から輪廻転生という概念が現れて大いに狼狽したが、ラマースらと探求を続けていくうちに、クリスチャンとしての信仰と輪廻転生の考え方は衝突するものではなく、むしろ輪廻転生という考え方を受け入れることでかえってクリスチャンの信仰が高められることを理解した。左側の小柄な男性がラマースである。
翌年の1924年、若いユダヤ人投資家兄弟であったモートン・ブルメンタール(900)とエドウィン・ブルメンタール(137)がケイシーに興味を持つようになる。特に兄のモートンは数年のうちに400件を超えるリーディング(大半は夢解釈)を得た。そして、このブルメンタール兄弟の支援によって、バージニア州バージニアビーチにケイシー病院を建設することになった。
ケイシー一家は、1925年、リーディングの勧めによってバージニア州バージニアビーチに越してきた。ケイシーの能力を最高に保つには、海と松林が重要であるとし、バージニアビーチが最適であるとしたからである。バージニアビーチは今でこそ一流のリゾート地になっているが、ケイシー一家が引っ越した頃は、さびれた漁村であった。写真はケイシー一家が最初に移り住んだバージニアビーチの家である。
ケイシー病院の建設を手伝うエドガー・ケイシー。ケイシーは大工としての腕前もなかなかのものであった。ケイシーの長年の夢がまさに実現に向かっていた。
大西洋を東に望む丘の上に、ケイシー病院が完成した。1928年、ケイシー51歳のことである。開院するやすぐに入院患者を受け入れ、常に予約でいっぱいの状態であった。世界大恐慌のあおりで、わずか3年で閉じられることになったが、その間に、多くの難病人がケイシーのリーディングに従った治療を受け、驚異的な成果を挙げた。
ケイシーはいろんな趣味を楽しんだが、特に魚釣りは霊的な娯楽であるとして、よく楽しんだ。イエスが漁師を自分の弟子にしたところにもそれは現れている。ケイシーが釣りにいくと必ずなにかしらの釣果をあげた。
1935年頃の、ケイシー一家の写真である。
三男のエバンス・ケイシー(487)は過去4回の転生がいずれも科学者であり、今回の人生でも電気工学に進むと良いことをリーディングが示唆したが、その通りに、彼はデューク大学で電気工学を学び、卒業後は電気技師となった。
グラディスが抱いているのは甥っ子のT.J.(1208)である。ケイシーは生後3日目に(1208)のためにライフリーディングを取ったが、そこで彼がアメリカの第3代大統領にしてアメリカ建国の父の一人とされるトーマス・ジェファーソンの生まれ変わりであるとした。そのために彼は「T.J.」というニックネームで呼ばれるようになった。ケイシーは(1208)は再び世界に貢献する人物になるか、さもなければボヘミアン的な人生を送るかの、どちらか極端になると告げた。
生涯の支援者であったユダヤ人デビッド・カーン(257)と談笑するケイシー。デビッド・カーンは自分の人脈を通じて、さまざまな人士をエドガー・ケイシーに引き合わせた。ケイシー没後も、A.R.E.の活動を支援し続けた。
ケイシーは当時まだ一面識もなかったハロルド・ライリー(438)を優れた理学療法士であると評価し、多くの依頼者を彼の治療院に送った。後にケイシーと知り合うようになり、ケイシーの仕事を助けるようになった。前世でもケイシーと深い縁があり、エジプトで同じようにヒーラーであったとされる。