エドガー・ケイシーのリーディングに新しい分野が誕生して間もなく、ケイシーの能力に関心を持つグループが積極的にケイシーの業績を活かそうと考え始めました。
その中でも、ユダヤ人の資産家ブルメンタール一家は積極的にバックアップし、リーディングの勧めにしたがって1928年にはケイシー病院をオープンするに至りました。また、ケイシーのリーディングを研究する団体が設立されるなど、ケイシーにとって順風満帆な時期になりました。
しかしそれも長くは続きませんでした。病院を開いてわずか3年後には、大恐慌のあおりを受けたブルメンタール兄弟が、資金難を理由に病院経営から手を引いてしまったのです。さらに研究団体も解散し、それに追い打ちをかけるように、1931年の秋には運命鑑定をしたかどで逮捕され留置場に入れられ、試練は絶えることがありませんでした。
しかし、このような試練の中にあっても、ケイシーは自分の仕事に対する希望を失うことはありませんでした。長年、自分自身でリーディングを読み続けていくうちに、彼自身がリーディングのもたらす情報の価値に揺るぎない自信を持つようになっていたのです。また、リーディングの情報を通して霊的にも自己を充実させていたのです。こうして1931年、エドガー・ケイシーの情報を研究普及する団体A.R.E.(Association for Research and Enlightenment, Inc.)がバージニア州に設立されました。
1943年、ケイシーの伝記『There Is A River』(邦訳『永遠のエドガー・ケイシー』)が出版されました。これによって全米からリーディングの依頼が殺到するようになりました。ケイシーは自らの健康よりも苦しみにある人々に奉仕することを望みました。その結果、1944年秋、卒中で倒れ、1945年1月3日、ついに帰らぬ人となってしまいました。それから四ヶ月後の復活祭の日、長年苦楽を共にしてきた妻のガートルードがケイシーの後を追うようにして亡くなりました。
エドガー・ケイシーの死去により彼の始めた活動は幕を閉じるものと思われていましたが、ケイシーの情報を受け継いだ人々――とりわけケイシーの長男であったヒュー・リン・ケイシーとケイシーの長年の秘書であったグラディス・デイビス――の尽力により、ケイシーの残した情報はいよいよ世界中の人々の関心を集めるようになり、今日の世界において、もっとも優れた霊的情報の一つとして、真理を求める人々から認識されるようになりました。
日本には戦後間もなく、一部の宗教者の間でエドガー・ケイシーの名前が知られるようになり、ケイシーの死後20年を経て、彼に関する書物が翻訳されるようになりました。その後もケイシーに関する関心は着実に高まりを見せ、これまでに日本において翻訳あるいは執筆されたケイシー図書は百点を超えるほどになりました。ケイシーに対する関心の高まりの中で、1993年、A.R.E.の正式の承認を得た唯一の団体として日本エドガー・ケイシーセンターが設立され、日本におけるケイシーの普及啓蒙活動の拠点が設けられることになりました。2002年には、NPO法人としての認可を得、現在はNPO(特定非営利活動)法人 日本エドガー・ケイシーセンターとして日本におけるエドガー・ケイシーの研究普及啓蒙活動を行うに至っています。
2008年には、エドガー・ケイシー最大の霊的遺産といわれる『神の探求』の翻訳が完成し、エドガー・ケイシーの福音がいよいよ日本にも広められる基盤が出来たといえます。